lecturer's blog

中の人→しがない大学教員。適度にフィクション。

割愛願いに関するQ&A

 割愛願いに関するQ&A的なものをまとめておきます。前回の記事でも申し上げましたが、書くことは私が関わったこと及び伝聞したことに依拠しています(要はスモールサンプルです)

keizaibakutothesecond.hatenablog.com

割愛願いとは

 割愛願いとは、大学教員の移籍(大学間の教員の異動)に際し、教員の移籍校から在籍校に送られる書状である。

 そもそも、割愛願いとは、昔国立大学教員が文部教官だった時代に、(国立)大学間での教員移籍の際に、移籍側の大学(移籍校)が在籍側の大学(在籍校)に出す挨拶状(というか仁義を切るための書状)だったらしい。当時は、移籍校側の担当者が割愛願いを抱えて在籍校に「教員の移籍を願い出る」ために挨拶に出向くのが普通で、その際の挨拶状が割愛願いとされる。

 その国立大学同士の移籍の慣習が広がり、形骸化して残ったのが、現在の郵送でやり取りする割愛願いということらしい。なお、この書状に正式名称は無いので、「割愛状」、「割愛願」等表記はまちまちである。

割愛願いの宛先と差し出し先

 宛先は、在籍校の学長と聞きました。となると、差し出し先は移籍校の学長ですかね。自信がありませんが…大学の規模によっては学部長・研究科長等部局長クラスが宛先(差し出し先)ということもあり得るし、一部では法人のトップが宛先(差し出し先)にということも有り得そう。

割愛願いの法的な意味合い

 嘗て国立大学同士でのやり取りにおいては、割愛願はそれなりの意味があったのかもしれないが、そもそも法的拘束力は全く無い。割愛願いは単なる習慣的な儀礼のツールに過ぎず、割愛願いを出さない移籍校も少なくない(と聞く)。

割愛願いの必要性

 では、なぜ儀礼的な習慣に過ぎない割愛願いが、現在まで残っているかというと、そこに何某かの必要性があるからと推測できる。

移籍校側にとっての必要性

 移籍校側にとって、教員を移籍させるにあたって、出来れば穏便にことを運びたいはずである。大学の世界は、共同研究、非常勤講師の受け入れ・派遣、地域連携での協力…等どこかしらで繋がっていることが多く、一人の教員の移籍でそれら全てを失うのは割に合わない。また、移籍校側も余程の有力校で無い限り、ほとんどが(前任を引き抜かれた等)在籍校側の側面を有しているので、お互い様という心情を有している場合が多く、そういう意味でも割愛願いくらいは出して、仁義を切っておくのは当然と考えているのではなかろうか。

在籍校側にとっての必要性

 在籍校側としては、その教員が出ていって欲しくないと思っていれば、移籍に抵抗したい。但し、抵抗するといっても法律上引き留める術は無い訳で、そういう状況の中で、移籍に条件をつけて(担当者が決まるまで非常勤を引き受けさせる、移籍を引き伸ばす等)返信するのに、割愛願いはうってつけである。

候補者にとっての必要性

 仮に、在籍校側が条件通り退職を認めない場合、割愛願いは移籍校側の態度を在籍校側に公的に示してくれるので、安心材料の一つにはなると思う。

割愛願いに対する在籍校側の反応

 割愛願いを送られた在籍校側は、(条件付で)返答する、無視する両方有り得るが、これは大学同士のやり取りなので、候補者はあまり気にする必要は無いと思う。

取り敢えずのまとめ

 大学教員の移籍は、交渉で決まる度合いが大きい。移籍校側は、候補者を早く戦力にしたいだろうし、在籍校側は、授業、研究、学内業務等に支障がでないことを優先したい。折り合えないこともままある。

 大学院博士課程の進学者がかつて程の水準でなく、前回の記事で紹介したように今の40歳代前半の研究者の層が厚くない現状で、経験があって優秀な研究者の奪い合いは今後も続くのではなかろうか。となると、移籍の揉め事もなくなりそうにない。

 候補者は揉めた場合は板挟みになって心労が絶えないでしょうが、感情的になるのは禁物。「自分は移籍校、在籍校両方から評価されている傑物だ」とでも思って、やり過ごす他は無いと思う。